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“西行桜狸山”が付けられているもの

  • 西行桜狸山懸装品展示中

    8・9月の2階展示コーナーは西行桜狸山の飾りを展示しています。

    西行桜狸山についてはこちら

    IMG_1545.jpg

    展示品は

    からくり人形三体(西行法師、都人、桜の精)、見送幕下絵(中島来章筆)、欄間彫刻、鬼板です。展示は10月4日(金)まで(桜の精は9月15日まで)。ぜひご覧下さい。

     

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  • 西行桜狸山 (さいぎょうざくら たぬきやま)

    西行桜狸山
    西行桜狸山


    西行桜狸山

    西 行 桜 狸 山 の 概 要

    慶長年間(1596-1611年)、塩売洽兵衛なる者が天孫神社境内で木製の狸の面を付けて踊りをしたのが起りという。現在の山の形は寛永12年(1635年)に始まり、明暦2年(1656年)に大体できたというが、現行のものは材料、様式ともに江戸末期以後のものが大部分と認められ、ことに昭和の初め(六年頃)に唐破風屋根などの大改造があって、現状となった。構造形式は向唐破風造曳山式、三車輪、上・下部に大別、上部の木柱(方柱面取)、斗供出三ツ斗、上層後部に高欄付壇を置く。屋上前部に狸像を立てる。

    大正末期頃の西行桜狸山(絵葉書複写)
     西行桜狸山の旧影で、昭和初頃に買った絵葉書を複写したもの。従って撮影時期は大正末期頃まで溯るかもしれない。その後唐破風以上は大改造され、材料形式など皆新らしくなった。唐破風の形(曲線)、三つの懸魚(もとはこのように菊、現在は桜)、屋根の葦き方、鬼板など、現状は旧姿と全く違っている。ひと口に言えば一般人が見て「立派に、派手になった」と言えよう。下部の車輪や轅(ながえ)などは、この写真から見た処では変っていないようである。

    近藤豊 記「大津祭総合調査報告書(2)西行桜狸山 大津祭曳山連盟 大津市教育委員会 発行 1972年発行」より抜粋

    西行桜狸山


    西行桜狸山

    人  形
     二層の中央奥に金欄の衣、絽の法衣をつけた西行法師(大人形)が右手に中啓、左手に数珠をもって立っている。その上手前に塩瀬の包衣に麻の素袍(すおう)をつけた都人がひかえている。下手の柱の傍に桜の古木が一本前方に水平に延びている。この奥に桜の精翁人形がひそんでいる。
    所  望
     桜の樹の根元から次第に姿を現わした桜の精(翁人形)が前方に進み、廻って、腰をおとし、又立ってくるっと回る、又前に進んで以前の振りをもう一度繰り返えしてふりむいて消える。この身振りは西行法師と法問答する態を表現したことになっている。

    曳山様式
    西行桜の曳山構造様式は、唐破風を持つ屋根に右手を上げて日和見する狸公を立て、別名狸山と異名をとり、くぢ取らずで先行する姿は近江都邑の豊かなロマンのある風流をいやが上にもかもし出している。省り見るに大津は元来、わが国最高の大衆芸能文化の粋をあますところなく結集した平安京の芳香を沐びながら、しかも近江人特有の趣向にてらして、3つの風流文化を、即ち一つは京師の舁山(かきやま)の能人形を、次にあやつりとからくりの前期の様式を、最後に鉾山様式を一つに融和統合をはかった。この大津独自の庶民的創造の理想は、中世期的能の近江猿楽の幽玄と中世期的華香の和合と調和であった。ゆえに曳山人形と演戯の風流文化の基盤は大津にあり、大津を究めずして斯道の研鎖は不可能であろう。

    山崎構成 記「大津祭総合調査報告書(2)西行桜狸山  大津祭曳山連盟 大津市教育委員会 発行 1972年発行」より抜粋


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