西宮蛭子山 (にしのみやえびすやま)

西宮蛭子山


西宮蛭子山


西宮蛭子山

西宮蛭子山の概要
 この山は恵美須山(えびすやま)あるいは鯛釣山(たいつりやま)といい、市役所の資料によれば最初は宇治橋姫山と言ったとのことである。そして明暦二年(1856年)にでき、のち延宝年中に西宮恵美須山にかわった。古くから毎年えびす様を出して飾り盛大に祭っていたが、後に曳山に載せ、所望に答えるようになったという。

構造形式、細部等
 入母屋造、妻正面、曳山式、三車輪で他の曳山と同じく、上・下層に大別され、下層櫓は四本柱と貫・筋違で固め、車台上に載る。上層柱は通り柱で下層櫓に結合すること、内転びをもつなど、他と変りなし。上層組物三斗(みつど)、軒は一軒(ひとのき)の扇垂木(おおぎだるき)。妻飾、豕扠首(いのこさす)。大棟端獅子口足元付、懸魚(けんぎょ)は猪ノ目懸魚。内部天井は格天井。頭貫(かしらぬき)には中央と柱際(はしらきわ)に極彩色の熨斗目(のしめ)飾りを画き、中に牡丹唐草や竜文などを入れる。
 この山では屋根構造が特に注意される。即ち大体が社寺建築の屋根構造に準じているもので、小屋梁兼桔木(はねぎ)、小屋束、母屋桁(もやげた)等と軒廻りの各部材とを組立てて行くのである。このような方式は社寺建築構造に十分通じている者でなければできないことで、いわゆる宮大工の関与が大きいことが知られる。(この点京都の祇園祭やその他県内の長浜祭・日野祭なども同じである。)
 現在の蛭子山は前記資料に元治元年(一八六四)とあり、様式、材料から見てそれが認められる。その後も次々と補修や整備が行なわれたと見られ、昭和以後でも坂本の久保久造氏が塗装を行なった刻銘が軒付(のきづけ)の裏にある如き、その一例である。この年を追うての保存や荘厳されて行くことにも町衆の深い愛情や関心のほどが偲ばれるものである。

近藤豊 記「大津祭総合調査報告書(6)西宮蛭子山 滋賀民族学会発行 1974年発行」より抜粋

西宮蛭子山


西宮蛭子山

由 緒 考
四宮祭礼牽山旧記によると、五番 万治元戌成年 宇治橋姫山 塩屋町 とあり、これが現在の白玉町の旧称である。白玉町の変遷について、大津市志中地志によると、浜通り北側の方は旧藩蔵屋敷なり、浜通りを米屋町、横町を塩屋町という。米屋は以前、米商人のみ住み、塩屋町は塩屋多く、明治七年町制改正の際に両町の合併を計ったが、町名決まらず、明治十一年県令により白玉町と決った。白玉の名は当時品質優良な白米の代名詞なりという。
 旧記では延宝年中に橋姫山が西宮夷子山に替るとある。元禄六年牽山練物くぢ取濫触左之通り のところに 恵美須 塩屋町 とある。つぎに伊勢参宮名所図絵に一四輛の山の名と町名が記るされているが、九番目に西宮白玉町がある。これら古記録の外に2件の貴重な板書がある。
 四宮祭礼牽山旧記にある延宝年中に橋姫山から四宮夷子山に替るという記録はこの板書の文書と合致する。丁度300年以前の創建である。なお、鯛釣山は昭和16年まで曳行され、七年後の昭和23年に再び四宮祭礼に毎年供曳され、大津祭を賑わしている。
所望 
 鯛つりの所望等身大の蛭子人形が、頭に風折烏帽子、身を狩衣に包み、作り岩の渕に左足をおとして、どっかり腰をすえ、釣竿を悠然とたれている。右手の釣竿をややあげ、左手で太郎をあせってはならぬと制しながら、絶えず微笑を忘れない蛭子のこのポーズはなんとも美しく、気高い。待つ程に二匹の鯛が水面をもつれ合いながら、飛びあがったりして戯れている。夷子は首をうごかして鯛の行方を追う。左に竿をよせると、うまく鯛がうまく餌にとびつく。すかさず竿をあげる。大きな真赤な鯛が鱗をギラギラさせてはねる。蛭子は太郎冠者の持っている魚篭におとす。
 これで夷子の鯛つり所望は終っている。手遺いの二匹の鯛。一匹だけつり上げて終る。残る一匹でもう一度あの見事な鯛釣り芸を所望したい程この芸はこまかい。
 蛭子が首を左右にまわし、上体をまげる。竿をはね上げる。座ったままの姿勢ではあるが、蛭子の身振りは実によく釣り人の姿を真似ている。それに加えて鯛の泳ぐ様も、すべて人形方の経験と表現えの人に知られない努力がこの効果を生んだのである。操者は下遣いだから外部から操法は見えない。これ程ドラマテイツクに終始する発想の演戯は他に例はまったく見られない。

 蛭子の鯛釣り戯は、大津以外にも恵比須を題材とした曳山が多くあるが、たいがいは蛭子が竿をたれる、初めから鯛が糸にぶらさげっているのをつり上げる。まことに他愛がない。大津の鯛つり山は他に全く類似のない特異なものである。夷子が川の表を見ながら釣糸をたれる。この蛭子の身振りに呼応して鯛が川を泳ぎまわる。2匹が空中に跳びはねたり、浮き沈みしながらおどりまわる。波板があるので操者の手は見えない。この鯛のうごきに蛭子の身振りが反応する。蛭子は首や上体をまわして鯛を追う。鯛がつられてはね上る。太郎の持つ魚篭(かご)におとされる。
 瞬時に終演する蛭子の鯛つり風情である。極めて短いが、しかし印象深いドラマティク・パターンである。最も強い印象は二匹の鯛がおどりはねるところと、釣られるところである。波板の手摺の彫りと絵がうまく調和している。筆者がこの様に情景をのべると、迫真的だとか写実性が強いものと感じられるかも知れないが、その反対で、優稚な額縁の中から浮き出した木彫的な写実を超越した絵画的情景として受けとれる。蛭子と鯛とのかね合いがドラマティックにぴったりと美事におさめられている。ここには迫真性もなく再現もない。超写実があり、非現実がある。美しい木彫りの絵画として映る。衒うことも誇張もない。数百年の伝統がはぐくみ育て、かかる民俗戯を完成したのである。

山崎構成 記「大津祭総合調査報告書(6)西宮蛭子山 滋賀民族学会発行 1974年発行」より抜粋


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