殺生石山 (せっしょうせきざん)

殺生石山


殺生石山

殺生石山の概要
 殺生石山は玄翁山とも言い、大津市教育委員会発表の資料(昭和40年)によれば、延宝元年(1673年)、一説に寛文二年(1662年)に造られたという。この山の由来については同資料に「能楽・殺生石を取り入れたもの。鳥羽院に寵をうけた玉藻御前は実は金毛丸尾の古狐で、帝の生命を縮めんとしているのを安部泰親に発見され、東国に逃げ上総国三浦之介に退治され、殺生石となる。そして那須野ケ原で農民を悩ましていたが、玄翁和尚の法力で解脱(成仏)する。」という説話に基づくという。

 構造形式、細部等
 切妻造(妻正面)曳山式、三車輪、上・下層に大別、下層櫓は四本柱と上下の水平材、貫及び筋違で固められ、轅などで構成される最下部構造に載る。上層まで通る 柱はこの櫓に固定され、上方切妻屋根を支持する。この四本の通り柱は内転び(内方に傾斜)が著しい。
   建築・工芸的装飾は上層部に集中される。詳細は写真にゆずるが柱、桁、梁、頭貫などは黒漆地に朱・金箔置あるいは極彩色で各種の装飾を凝らす。柱上斗栱(組物)は他の山に多い出三ツ斗でなく、絵様肘木を二段に重ねた大斗肘木(絵様大斗肘木)、頭貫木鼻は獅子(金箔置)。
  この山の装飾面で最も注目されるのは屋根裏の草花図であろう。軒桁の内と外とで別な草花を描いているので、全部で四十種が描かれている。その一つに落款があって、景文の筆なることが知られる。そう言えば同種の草花が京都・祇園祭の月鉾の屋根裏にもあって、それは応挙の筆である。だから殺生石山のこれも祇園祭と同じ情勢のもとで景文が麗筆をふるったものであろう。いずれもごく写生風写実的に描かれ、中には山、野草類も見られる。即ち「しゅんらん・かたくり・あけび・みやこぐさ」等で、これ等のささやかにして謹ましやかな野草を飾った古人の心が奥ゆかしく感じられる。またこの中には「あさがお」の花が他の例に多く見られるように原種に近い青色であるのも当時まだ園芸品種が少なかったであろう事が思われて興深いものがある。
 この山の幕押え金具を入れる箱に「寛政六年(1794年)、同九年(1797年)の墨書があり、これがこの山のある一つの時点を示すものとして意味が深い。ただこの墨書銘には「麒麟・師子」 (師子は獅子のこととあって、現在の金具と合わず、昔は麒麟や獅子の金具があったのが、のちに現行のものに取替ったとも考えられるものである。以上のようなことや上層細部様式などから見て現在の各部材は延宝や寛文にまで朔るものは極く少ないと見られよう。
なお「茶弁当」という巡行のとき持運ぶ食料関係などの入れられた昇ぎ箱があるのも注意したい。これは桑や桐材を用いた、軽くて上品なすぐれた木工品の一つである。

近藤豊 記「大津祭総合調査報告書(5)殺生石山 滋賀民族学会発行 1973年発行」より抜粋

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人形と所望
 二層の上手柱の側に右手に法子を持ち、法衣をまとった玄翁和尚が立っている。その左奥に殺生石があり、岩の中に玉藻前がひそんでいる。和尚が法子をあげると、法力により殺生石の岩が二つに割れ、玉藻前の優美な女官姿で出てくる。舞扇を口元にあてがい、おろすと玉藻前の顔は狐に変っている。所望はこれで終る。

由 緒
 四宮祭礼旧記によると、第六番 寛文二壬寅年、元禄六年牽山練物くぢ取觸屑左之通のところに殺生石柳町がある。伊勢参宮名所図絵にある曳山絵図十四番の内十二番目に殺生石柳町の名がある。近江輿地誌略の九月十日祭礼のところに、「傀儡をなす所謂郭巨山殺生石山猩々山等なり其行粧祇園会にかって不劣此余或は傘鉾あるひはねり物などもて美龍太甚」とある。
 現在玉藻前人形の左胴脇に年代、作者銘が彫られている。
 大津の殺生石の玉藻前は、面だけでなく頭ごと立体的に変わる二つの顔が、一つになって各々の顔が全く異質なものに変わる機構は作り易く、効果も極めて甚大である。
 名古屋系の人形が能を真似て、後見もなしに、仕掛けで面を瞬間につけて、変面するのを見ると、実にほほえましく、思わず胸のはずむのをおぼえる。曳山の人形戯には、この変面の演目は人気番組の一つである。
 元来、人間は面をつけることによって、自我でない自我を演じようとする。アポロ的からデオニゾス的への変身本能を具有するのであろう。仮面への本性を風流舞の盛行の跡をたどってみても、この意味での変身は、いつの時代でも肯定されてきたのである。単に面をつける意図よりも、からくり人形では変顔する作意の方が、変面より高度な演繹的文化ではないかと思う。寛政期は曳山人形からくり戯の完成期である。寛政六年の速見市郎兵衛の、この作品は生まれるべくして生まれた寛政年代の習作であろう。
 玉藻前のこのからくり変顔は日本国中の曳山からくり戯の中で唯一つのものであることを特筆すると共に、寛政期は、からくり戯の完成期であることの実証のためにも、恰好の標本であると信じている。

山崎構成 記「大津祭総合調査報告書(5)殺生石山 滋賀民族学会発行 1973年発行」より抜粋


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