石橋山(しゃっきょうざん)

石橋山


石橋山

石橋山の概要
 石橋山は唐獅子山とも言い、大津市役所の調査資料によれば江戸初期、寛永二年(1625年)または正保二年(1645年)の製作と伝えるという。山の名は能楽「石橋 しゃっきょう」に因むもので、その由来は天台宗の僧の寂昭が仏道修業のため宋国に渡ったが、ある時青涼山(天台山)の中で文珠菩薩の浄土と伝えられる一つの険しい石橋を渡ろうとしたところ、獅子が岩陰の牡丹にたわむれているのを見たことから来ているという。
 それゆえ、山の上層には本骨紙貼の大小二個の岩があり、岩の中に仕掛の台が仕掛られ、その上に獅子を載せ、岩に造った溝と二本の綱によってこれを操るようになっている。獅子は岩の中からとび出して牡丹の花に戯れ、再び岩の中に隠れるという所作が演じられる。
 曳山の細部の特色であるが、年代的には上のようなのでその頃の様式が見られる。しかしこの山の場合、正・背面の懸魚が特別大きく、1.5mに近い立派な牡丹彫刻であるのがとくに注意をひく。獅子との関連説話をもつこの山で「牡丹に唐獅子」ということから牡丹を特に強調し、豪華なものにしたところに敬意をあらわしたい。なお上層天井は折上格天井で、折上部は小組入り、その下は格間にそれぞれ菊の彫刻を入れた手の込んだ作であるのも、この山の見どころの一つであろう。


近藤豊 記「大津祭総合調査報告書(10)石橋山 大津祭曳山連盟 大津市教育委員会発行 1976年発行」より抜粋

石橋山


石橋山

 所望
 唐獅子の所望
 二層の上床中央奥に天台山をかたどった大きな岩窟がある。上手前に僧定基が立っている。所望囃子で岩の正面の下が突然割れたかと思うと岩戸が開く、大きなドングリ眼の唐獅子が立っている。少し前に進んだかと思うと、回れ右して、また岩の内にかくれてしまい岩戸が閉じられる。二層の前に美しく飾られた牡丹に戯れるところと後足をぴょんぴょんあげてよろこぶところがない。
 「石橋山」は昭和40年10月以来何度も訪ね、からくり機構について訊ねているが、取り外しのできないように仕組んであるので内部構造を察知することができなかった。石橋(しゃっきょう)は曳山中では獅子の出る山として人気がある。唐獅子の恰好がかわいいし、後足をあげはねまわるところがよろこばれる。
 戦災で惜しくも焼失した名古屋東照宮に属している宝永元年(1704年)に創建された中市場町の石橋車の唐獅子と唐子人形は京都の吉田平次郎が作っている。この獅子と人形を名古屋の有名な蔦屋藤吉が修理している。獅子の頭は昔のまま、当時も頭に鳥毛をつけず、塗頭になっていた。この獅子の重量が37kgもあり3名の人形操者を必要としたことなどを自慢話にした記事が、伊勢門水著「なごや祭り」にあり獅子の写真が掲載されている。
 宝永元年製のこの唐獅子が焼失してしまった現在、大津湊町だけが唐獅子を持つ日本唯一の曳山になってしまった。これは寛延元年(1748年)の製作である。228年以前の作品であることに注目したいが大正13年の京都の丸平が修理する迄4回位改修されたであろう。旧態を残していると思われる部分は唐獅子の台とターンテーブルのところであろう。
 唐獅子を旧態に復元することは決して困難なことではない。いつか完全に修理されて牡丹に戯れる唐獅子が見せてもらえることを楽しみにしている。というのは、湊町の唐獅子は日本唯一のからくり戯となったからである。
 つぎに唐獅子の作者は古文書にないということであるが、筆者は林孫之進の作風と機構の特徴をのべた時にふれたが、唐獅子の作者は林孫之進一家であると断言したことがある。繰り返えし言うと、
1,狸山の桜の精の出現機構、
2.西王母の童児の構造、
3,鯉山の鰹の滝昇りからくり機構
などは、唐獅子の出現のための工法が同一種の考察から創造されたものである。僧定基の面相は孫之進一家の作風ではない。憎風態の面はよくその心を表明している。老巧な人形細工師の作である。唐獅子の牡丹に戯れる位置は、改装前はもっと長かった(約1m)ので、獅子の牡丹と遊ぶところが楽しく見られ、人気のある所望であったと思われる。昔のことを思うと惜しい気がしてならない。


山崎構成 記「大津祭総合調査報告書(10)石橋山 大津祭曳山連盟 大津市教育委員会発行 1976年発行」より抜粋


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