猩々山 (しょうじょうやま)

猩々山


猩々山

 猩々山の概要
 この山は、能楽の「猩々」に因んだものである。すなわち「昔中国の揚子の里にコウフウー高風という人がおり、親孝行であった徳により夢の中に奇瑞があらわれた。それはコウフウが揚子の街に出て酒を売れば必ず富貴な身分になるだろう、ということであった。彼はこのお告げに従って酒を売っていたら、海の中に住む猩々が来て酒を飲み、舞に興じた後、コウフウの正直な心に感じて酌めども飲めども尽きない酒の泉を与えられた」という故事によったものである。
 大津市役所の資料によれば山の製作年代は寛永14年(1637年)。製作年代はこれによると江戸初期となるが、これは恐らく猩々山が初めてできた時のことをいうのであろう。いま見る山はとてもそんなに古いものではなく、様式や各部材の古びかた、木の肌などを見ても江戸時代のごく末、部分的には明治以後のものが大きい部分を占めるようである。たとえば野棟木に「西  明治三年庚午十一月三日上棟大工棟梁藤原告右衛門」の刻銘があり、棟木の年代が1870年のものなること明らかである。
 
 次に猩々山全体について概略の記述をしておく。山全体については三輪で下層櫓(枠)に上層まで延びる通り柱四本(上部は黒漆塗面取仕上げ)で、柱頭上、出三ツ斗の組物を置くなどは他の山と同じであるが、下層櫓は他の山よりも木太く、丈夫にできていると言えよう。一般に正側面とも柱間一間であるのにこの山は両側面の中央にも柱があり、両側は二間になっている。(建築的に言えば一間二間)、貫も両側面後部の柱間だけ別のを入れている。また車台と後輪車軸とを藁縄で縄絡みとしているのも見逃がせない。細部装飾では別段特異なものは見られず、頭貫には雲竜や唐草文を入れた熨斗目文様を盛上げの極彩色で描いており、木鼻が獅子頭であるなど他の山と共通した処が多い。部材には墨書されたものも多く、位置や向きがそれによって示されている。大棟は獅子口、その足元は雲、中央の懸魚(けんぎょ)は猪目懸魚で菊鰭、中心の瓢箪上が極端に細いのが目立つ。両脇の懸魚は尾長鳥ようの彫刻である。頭貫上には丸彫の竜を入れ、これ等はみな金箔置きである。また欄縁は黒漆地に波や螺鈿(真珠光沢をもつ貝殻を嵌込んだ装飾)の飛竜(有翼の竜、応竜ともいう)を飾っている。
 屋根まわりは切妻、軒は一軒、内部は水平な天井なく、化粧屋根裏で、裏板は軒とともに金箔置きである。大棟の側板が青海波の透彫なのも他に多く見る形(京都・祇園祭の鉾にも)である。これ等の装飾各部材や構造的部材の製作年代は確実なことが不明なのが多いが、様式や手法上江戸末期、明治以降と認められる。それについては御幣(ごへい)を入れる箱の蓋に「文化十二乙亥幾久月、年寄西村ハ兵衛當番古市二兵衛」と蓋裏に墨書され、この箱が一八一五年幾久月ー陰暦九月、(菊月)ーに造られたことなども参考になるであろう。

近藤豊 記「大津祭総合調査報告書(12)猩々山 大津祭曳山連盟 大津市教育委員会 1977年発行」より抜粋

猩々山


猩々山

 人形所望
  上手中央奥に猩々、下手に高風が立ち、二体の前に大瓶があり、高風は長柄の杓で酒を汲んで猩々の大盃に注ぐ。猩々は盃に口を当てて歌む。猩々は左手に持った扇で顔をかくすようにする。扇を顔から放すと、猩々の顔は真赤になっている。この顔の変化(真顔が赤ら顔に変わる)を見せるのが所望の見せ所である。
後  記
 からくり人形の所望を重視する観点から、両面首のこの奇特な発想の時代が良工左六丞とすることは、しかも320年以前の明暦年代とするこの事実はまことに興味深く、どうしても他地方の猩々山と比較してみたくなる。
 今は見られないが名古屋本町万洽元年(1658年)に創建された猩々車がある。大津の猩々山は明暦(1655〜58)年中なので、数か年大津が古いことになる。幕末竹田源吉作愛知県半田市、亀崎、中切組、力神車の前壇人形が猩々面を真顔につける。戦後のものでは岐阜県養老町西町の猩々車がある。以上の比較から考察して、大津の猩々山の存在する意義の重要さが容易にわかる。のみならず、この変顔の風流発想思潮に関する芸能文化史の観点から絶対に見逃し得ない重要資料と言い得るのである。

山崎構成 記「大津祭総合調査報告書(12)猩々山 大津祭曳山連盟 大津市教育委員会 1977年発行」より抜粋


より大きな地図で 大津祭 宵宮の地図 を表示
作成中