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  • 「地元で受け継ぐ」 大津祭、龍門滝山の車輪新調 として京都新聞に掲載されました

     
    ほぼ完成した龍門滝山の車輪の状態を確かめる太田さん(大津市関津3丁目の作業場)
    ほぼ完成した龍門滝山の車輪の状態を確かめる太田さん(大津市関津3丁目の作業場)

     湖国三大祭りの一つ、大津祭で今年、曳山(ひきやま)の龍門滝山(りゅうもんたきやま)の車輪(タマ)が新調される。製作するのは大津市の宮大工太田豊地さん(59)。車輪製作は約50年前から京都市の業者がほとんど手掛けてきたが、「地元で技術を受け継がなければ」と初めて取り組んだ。

     曳山の車輪は、外輪にあたる複数の「大葉(おおば)」、大葉同士を連結する「小葉(こば)」、中心部と大葉をつなぐ「矢」など四つの部位から成り、くぎを使わずに木を組み上げる。昭和30年代初めごろまでは大津市内の「車大工」と呼ばれる職人が作っていたが、・・・・・・・・・・・・・



    以降は京都新聞の本文をご覧ください。

    「地元で受け継ぐ」 大津祭、龍門滝山の車輪新調(京都新聞)
  • 龍門滝山 (りゅうもんたきやま)

    龍門滝山


    龍門滝山

    龍門滝山の概要
     鯉山は別名を竜門滝山ともいう。向唐破風をもつ三輪の曳山で、製作年代は享保二年(1717)というが、多くの部分は江戸末期乃至それ以後に造り替えられている。主体構造は下層の車台、その上の下層(1階)櫓、これより上に挺出して向唐破風の屋根を支える四本柱、及び屋根部分の部材が組合わされてできている。下層は上層を引立たしめるためのものとも言うべく、組立完成後は織・漆・金・木工々どの工芸をすべて用いた装飾品で飾られ、上層の床上の後方に障壁を、その前に「鯉の滝上り」を飾る。これがこの山の名の由来する処であり、所謂登竜門の語もあるように、滝と鯉とがあらわきれている。建築および工芸的な装飾品について略述すれば次のようである。
    下層見送り  ゴブラン織「平和の図」 (重文)
    四本柱    方柱、黒漆塗、上部金欄巻を装う。
    頭 貫    慰斗目文様彩色
    斗 供    出三ツ斗
    欄 間    牡丹と獅子の彫刻
    背面障壁   中国風意匠を加味、竜首金具
    懸 魚    中央(兎ノ毛通し)丸彫牡丹
           桁隠は四箇、それぞれ青竜・白虎・朱雀・玄武(四神)の彫刻、いずれも金箔置
    棟飾り   雲に鯱(しゃち)の丸形。
     以上の如くで、工芸各部門の技術を適用した華麗な曳山である。(鯉山という名で、鯉の滝上りを扱った山は京都・祇園祭も見られる。)

    近藤豊 記「大津祭総合調査報告書(1)龍門滝山 大津祭曳山連盟 大津市教育委員会発行 1971年発行」より抜粋

    龍門滝山


    龍門滝山


    龍門滝山

     からくり
     戯宝暦12年に林孫之進が鯉山の鯉を完成したその翌年の記録に祭礼遠慮の記録がある。「宝暦十三娶来」翌年の「明和元甲申、明和二乙酉、明和三年」と「天明七丁未年」「米穀高直にて世上一統困窮に付神事牽山ねりもの総体相伴候に町々客集も一切無之」とあり、宝暦13年から25年間の内7年間休んでいる。
     また、太関町の火災についての記録に「文化十葵酉(1813年)八月柳町より出火、太間町迄焼失、八月鎮る。今年類焼之町々ねりもの山不差出外町立曳山並ねりもの等不残出し申候事」とある。これらの曳山関係文書写しの外に太間町の古い文書があり、からくりを拾うと鯉を金七両、滝・岩と天井の雲彫仕上げに金一ハ両の大金が支払れた覚書きがある。
     さらに重要なのは、鯉の三体に年代と作者銘が克明に残されていることである。三体の鯉の内の最も古いものは「干時宝暦十二年九月工人桧物師、庄兵衛作之」が鯉の背裏にあり、さらに胴の側面には「工孫之進作」と彫記され、走行台にも「工孫之進」の彫記がある。宝暦12年は1762年である。二体目の鯉の背裏に「干時寛五癸丑霜月、湖南大工栄蔵秀安造之」と読める。寛政五年は1794年である。大工栄蔵の鯉は初代(?)孫之進の鯉の外観、仕掛けを忠実に模倣している。
     三体目の鯉の背裏の漆塗りに「林孫之進祐貞」と彫記し朱が入れてあるが年代は見当らない。しかし丸屋町の西王母山の西王母の台座下の板に「洛巽住林四代之進祐貞(花押)」とあり、年代は天保十二辛丑年(1841年)とあるので恐らくこれと同一人でなかろうか。何れにしても工匠林孫之進の四代目孫之進祐貞であることは間違いないであろう。
     以上の如く関係文書のみを集成して由緒記とした。なお、宝暦期の鯉には二人の作者銘について、推定であるが、からくり機構の細工は林孫之進が、鯉の作者は桧物師庄兵衛であろう。鯉全体の設計者はおそらく林孫之進であったろう。

     からくり鯉の所作
     曳山二層の上床の主座の前に滝の大道具が垂直に立っている。1尾の鯉が滝の中央を下からせり上ってくる。滝を半ば登ったところから左右の鰭と尾を交互に動かしながら、ちようど滝を懸命に登ろうとするところである。登り切ったところで、突然鯉に翼が生える。真一文字に翼を拡げたまま鯉は昇天したかのように消えてしまう。屋台の天井全面には美事な雲が象彫きれている。前人形に唐風の貴人が立っている。
     以上の如く鯉の所作は、実に簡単に終ってしまう。この山の正式の呼称が「竜門滝山」であることを知る人々は、鯉は竜に化身して雲にのるのだと考えるであろう。鯉に翼が生えたのは昇天するためのもので、天井の雲との関係が容易にうなずける。竜に化身するところはないが、翼が鯉に生えることは細工師の秀でた創造性を高く評価したい。
     少し逸脱するが、寛政八年版細川半蔵著「機巧図彙」で巻の首に「竜門滝」と題する「からくり戯」の絵がある。この仕組みを見ると紙製の鯉の腹に鉄片をつけていて、滝の絵の内側に磁石が下から上へベルトにつけられ、鯉は磁石に引きつけられて上にあがり、消えると竜が出る。雲のかわりに煙がただようように仕掛けられている。動力はゼンマイ仕掛け。高さおよそ1mほど。当時の貴紳が客間の床の間に飾る高価な高等玩具である。
     京都の祇園会山渡之図、六月一四日の絵にも鯉山と題する舁山がある。大鳥居と社の傍の大滝の上に大きな鯉をしつらえた作り物風流の飾山がある。また、嘉永六年の両国回向院での見世物興行に抱真細工と題して、口上には出世鯉竜門までも滝登り。細工人浪花松寿軒、人形竹田縫之助上出来とある。鯉は昔から男児にとって出世魚として、重要な役割りを果している。しかし曳山からくり戯の鯉は太間町以外には見えない。

    山崎構成 記「大津祭り総合調査報告書(5)龍門滝山 大津祭曳山連盟 大津市教育委員会発行 1971年発行」より抜粋


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